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BUGTRONICA for Smartphone

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░▒▓ iOS & Android バグGame ▓▒░


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あるひ ぼくの めのまえは
バグだらけだった。
たいへんだ。なんとかしなくちゃ。

BUGTRONICAはスマートフォン向けのアプリで
バグった世界を徘徊するゲームなんだ。

キミはバグってしまっていて
むし を倒して右へ進まなくちゃいけない。

なんだかとってもこわいけど、だいじょうぶ。
きっといいことがあるよ。
元気がない人がやってくれたらうれしいな。


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*log正しさ

この間TwitterのDMでやりとりをして話した事なのだけど、なんとなく大事な事だなと思い加筆して書き記しておく、

ドット表現に関して例えばあのハードなら制約的に何色で同時に表示できるスプライトは〜等厳密な物差しを引いてあれこれいうのは自分としては純粋に作品を作る・楽しむ行為に対して足枷になってしまってよくない風潮だと思ってる。

自分の作品は確かに他の作品と比べてその制限を意識しているけど、その事に関しては言えばそもそもの自分のアニメーションの原体験がゲームボ―イや携帯のGIFアニメだったりで、制作もピクセル単位で限られた解像度やサイズ制限の状況で作ることから始まったからという事に他ならない。そして自分はその経験で得た影響をちゃんと自分の中で消化したいと思ってる。この表現は自分の「好き」を「何故好きなのか」と掘り下げた結果なんだと考えている。だから物差しに当てて考えないし、外した方が良いと判断した所は平気で外してる。

そういう物差しに当てて良い悪いと判断するより個人的に問題だなと考えてるのはコンピューターに所謂「使われている」としか思えない様なパッと見派手で凄いという様なエフェクトやプラグインに頼りきりな表現だろう。僕はゲームで言えば絵はドットなのに攻撃エフェクトがパーティクルでリアルな表現だったりというのが苦手だ。あとパチンコみたいな映像。確かにどちらも見ても下手だとかは思わないし凄いとさえ思う。

でも僕は「凄い」と「好き」は違うと思ってる。

凄いとか正しいは僕にとって作品の向こう側にいる人の顔が浮かばない事だと思う(全てが全てではないしこの人は凄い!という逆算的な正しさもあるけど)。問題がないという状態。問題がないという事は気にならないということで気にならないという事はあってもなくても影響がないという物。それより僕は作品自体に例えそれが稚拙な技術だとしても作る人の強烈な「好き」というフェチズムや拘りが伝わる物が好みだ。個性があるという事なんだと思う。

言い換えればコンビニのおにぎりと手で握ったおにぎりの違いというか。。わかるかな、わかってくれよ、ああ。。

個人的に願わくば見る人も作る人も「正しさ」に振り回されないでほしい。表面的な派手さや原始的(性的要素など)に人間の注意を向ける様なクリエイティブに引きずられないでほしい。広い目で様々な作品に批判姿勢を取らず作品の向こうに人間が見えるかを意識してほしい。この人は何が好きで何を考え愛していて何を伝えたいんだろうということを。
周囲の反応や星の数ではなく自分は「何が好きなんだろう」という視点の価値観を作って自分自身への理解を深めてほしい。

こういうのが人間的というか、生への実感がある生き方なんじゃないのだろうか。これが所謂世間の正しさではなく僕個人の正しさであり正義でもある。


*log20160615

憧れが、いつかきっとが、一生のレール上を静かに通り過ぎていく様な感覚、夢を見ることが抱くことが、走り続ける汽車の窓から遠く過ぎ去った駅のホームを見つめる様な気持ちになる事がある。

眠る時、いつかきっとではなく明日の事を考える。1週間先の事、今月の事、現実的だ。

本を読む、言葉から生まれた世界を想像する。想像のレールの上で眠りにつく。今は伊豆を一人旅してる。


*log

人はなぜそれを信じるか、そういう事ばかりに興味が向く。

信じるということは裏を返せば信じなくてはいけないという状態なのだろう。何かを信じないとやっていけない状態、不安を抱えているということ。
それ自体は悪いことではないし人間的だと思うけど、不安を無理矢理縛り付けて言葉巧みに救いをちらつかせて利用しようとする人達がいる。人間が人間の事をわかるとロクな事が無いなと思う。

人間が人間の事をわかると良いか悪いかが生まれる、それについて自分の頭で考えずに良いか悪いかを裁いてく、伝統や文化もそうなのかしら。
表現手法も、この色はあれでこんな動かし方をするとああだとか、とんぼの捕まえ方みたいに定石化されていきそれに甘んじる様になったらどうしよう。

甘んじるというのは軽薄かもしれない、でも分かれば分かるほど、人間ってなんてチンケな存在になってしまうのだろう。
ロマンがない、なんてな。


*log

最近紙を燃やしてるのが楽しい。
紙のお香だけど。火を灯した時にジッと赤くなるのが楽しい。ジワジワと燃えるのが見てて飽きない。ジワジワと燃えている間はジワジワと燃えている事自体に集中が出来る。火が燃えている間は火が燃えていると思う事ができる。1つの物事に集中することが何の障害も無くスッとできる、これはすごい事だと思う。

紙に火をつける為のライターが切れた。
このライターは昔、線香をあげるために買ったライターだった。もう2度と近づく事はないと思った土地、奇しくも先日近くを歩く機会があった。街灯の無い道、波の音、向こう岸にポツポツと光る街の明かりを向かう訳ではないけど目印の様にして歩く。今も昔も変わらないし、ここは変わる必要もない。

奇妙な偶然が重なったなと思った。


*log

過程と結果どっちが大事か。
そんな話題がいつぞやのラジオで語られていた。

結果を示さなければ伝わらないという当たり前の事だけど、キンキンに冷えた水をぶっとい注射器で頸髄に注入するかのような現実。

困難や新しい物事に立ち向かう時、自分を奮い立たせるために語る希望が捉え方によってはただの不安材料でその不安材料が聞く人の心を曇らせた時、僕のやっている事はただ不幸を生み出してるだけなんじゃないかとヘドロの様にこびりついたトラウマが排水溝から鈍い音を立てて逆流してくる。
もうこうなると弱音をオエーと吐きそうになる。でも排水溝の逆流を抑えるのが必死でどこへ吐けばよいのだろうとか思ったり。とかね、昔の話。

過程は内面で自己の価値基準に基づく評価で、結果はそれとは反対の外側で社会的な価値基準(例えば皆にとって有益か或いは富や名誉や質など人と比べて価値が分かる物)に基づく評価だと思う。

過程は人生そのものだと思う。手や頭を動かし追求し失敗したりやり直したり考えたり粘土をこねる様にじっくりと形を作っていく。過程を大事にしないということは人生を大事にしてない。形の無い物をパテで表面だけ埋め合わせて綺麗にする感じで、常に自分を他人と比べたり嫌われない様に気をつけて、自分がそれをどう感じるかなんて差し置いて表面的に良い結果を維持し続けようとする。過程をすっ飛ばした結果ほど陳腐な物はないと思う。

自分の人生はほぼ過程だ。過程を大事にして生きたいと思う。その過程から生まれる結果で社会との接点を見つけていきたい。


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